可愛い本には旅をさせよ
かつて小田急線の電車が走っていた地上は、いつの間にか緑豊かな遊歩道に生まれ変わっていた。新しくできたカフェや広場には、コーヒーを片手に笑い合う人たちの姿がある。軽やかで心地よい街。けれど、今の私には、その光景が少しだけ眩しく見えていた。私は何かから逃げるように、かつての線路跡をなぞって歩を進めた。
遊歩道をはずれ、静かな住宅街へ。スマホのマップが示したのは、気を抜けば見落としてしまいそうなほど平凡な昭和のアパートだった。
外階段を上り、メールで届いた暗証番号をドアのテンキーに打ち込むと、グイーンと低い電子音が鳴り、扉が開いた。
「お邪魔します」
誰に言うでもなく心の中で呟いて靴を脱ぐ。ひとんちに上がり込んだような不思議な緊張感を抱えながら、とりあえず部屋の明かりをつけた。少し空気がこもっていたので、窓をすっと開け放つ。
外の空気が一気に流れ込み、部屋の中の風がさっと生まれ変わるのを感じた。深呼吸をすると、なんだかとても穏やかな気分になった。
窓の下には、さっきまで歩いていた遊歩道が続いている。線路が地下に潜る前は、このアパートの目の前を小田急線が轟音で走り抜けていたのだろう。今はそこを、子どもたちや、近くの商業施設へ向かう人たち、犬の散歩をする人たちがのんびりと行き交っているのが見えた。
振り返り、室内に目を戻す。さっきまでの緊張感は嘘のように、自分の部屋のようなくつろいだ気分がもうそこにあった。古びた木造アパートだから、夏はちゃんと暑くて、冬はきっとそれなりに寒いんだろうなと容易に想像がつく。機能性や合理性とは無縁のその佇まいが、今の私にはむしろ新鮮に映った。
ここは、人間のための家ではない。本を愛する人たちがお金を出し合って部屋を借り、それぞれの大切な本を「住まわせた」、本のための居場所。本の家だから、「HONKE」というらしい。
壁際の本棚はもちろん、押し入れの暗がりや、レトロな台所の隅。冷蔵庫の中にも、色とりどりの本が住んでいる。お風呂場を覗くとそこにも本があり、からっぽの浴槽にはご丁寧に読書用のクッションまで敷かれていた。さすがに初めて来た私には浴槽での読書は難易度が高すぎるなと、思わずクスッと笑った。
部屋の片隅に、ラジオが置いてあった。おそるおそるダイヤルを回してみる。自分の手で周波数を合わせるなんて、生まれて初めての体験かもしれない。ジジッ、という小さなノイズの奥から、遠くの音楽が微かに聞こえてきた。ラジオから流れてきたのはポップな洋楽で、昭和の部屋とのコントラストになんとなく違和感を覚えた。
私は冷蔵庫の中で眠っていた一冊の小説をそっと抱え上げ、ちゃぶ台の前に座った。表紙を開くと、一枚の小さな手紙が顔を出した。
『仕事でどうしようもなく泣きたくなった夜、この一行に救われました』
丸みを帯びた、ひたむきな文字。見知らぬ誰かの切実な温度が、そこにあった。
ああ、そうか。ここにいるのは、ただの紙の束じゃない。
本の持ち主が、どうしても誰かに読んでほしくて、このアパートへと「住まわせた」とびっきりの記憶たちなのだ。
スマホの電源を切り、床にごろんと横になる。背中に伝わる畳の感触が心地いい。
窓の外からは相変わらず、通りを歩く人たちの話し声や、風の音が聞こえてくる。決して無音ではないのに、私の心の中はなんとなく穏やかで、しんと静まり返っていくような感覚がした。
1ページずつ丁寧にめくっていく。物語の情景とともに、本の持ち主の想いが、私の心へじんわりと染み込んでくる。
今まで、本というのはただ情報を得たり、現実逃避をしたりするためのツールだと思っていた。でも、誰かの切実な想いが添えられたこの一冊をめくっていると、本が持つ別の顔に気づかされる。
今の私にとって、この本は誰かの心と繋がり、自分の中の何もない「余白」を、ただ余白のまま優しく肯定してくれるような存在だった。
心にふっとゆとりができると、不思議と大切な人たちの顔が浮かんできた。
今度の休みは、あの子も誘ってみよう。
SNS映えなんて気にしなくていい。自分の家に友達を招くような気軽さで、お気に入りのお菓子を持ち寄って、このちゃぶ台を囲むのだ。他愛のない話をして、一緒に本をめくって、ただホッとする時間を分け合いたい。
それから、家の本棚でずっと眠っている、私のあの「とびっきりの一冊」のことも思い出した。
どこにしまったっけかな。家に帰ったら、探してみようと思う。
いつかこのアパートに私の本も住まわせてあげようかな。そんなことを想像したら、なんだか急に嬉しくなって、ふふっと声に出して笑ってしまった。
ここは、本が住んでいる不思議なアパート。
そして、私がゆっくりと空間に溶け込み、見失っていた自分自身の余白と出会い直す居場所。
「本好き」なんて胸を張って言えるほど、たくさん本を読んできたわけじゃない。
それでも今、私はたしかに、ここで本と一緒になった感覚がした。
物語をはじめよう
下北沢駅から歩いてすぐのアパートにみんなで本を持ち寄り、本を「住まわせた」小さな図書室があります。
ここはお店ではなく、みんなの家。まるで友達の家に遊びに来たような感覚で、同じ感性の人同士、1日だけの共同生活を気軽に楽しんでいます。
ゆったりと過ごした後は、掃除や整頓をして次の人を迎え入れる。サービスではない、日々の暮らしの延長線上にある居場所です。
お家の中では、たまに本の持ち主(書架主さん)が催しを開くこともあります。読書会やボードゲーム会など、どなたでも気軽に参加できるものもあります。
本の居場所だからといって「たくさん読んでいなきゃ」なんて気負いは一切不要です。ふらっと本屋さんに立ち寄るような感覚で、お越しいただければ嬉しいです。もちろんあなたの本をここに住まわせることもできますよ。
ひとりで楽しむ
下北沢で買った小説と、お気に入りの焼き菓子を持って。誰の目も気にせずゆっくり過ごしたり、偶然居合わせた人と推し本を語ったり。日常から少し離れた、あなただけの余白時間を楽しめます。
みんなで楽しむ
仲のいい友達を誘って、誰かの家に集まるような気軽さで。ボードゲームや、ささやかなお誕生日会を開いたり。おしゃれなカフェでは味わえない、飾らない、ホッとする時間を過ごせます。
あなたの本も住まわせてみませんか
HONKEは、みんなの推し本を持ち寄ってつくった小さな図書室。少しずつ費用や知恵を出し合って、この居場所を守っています。あなたの活動や想いもチカラになります。
HONKEの住人になると本を住まわせたり、この場所で催し(無料・有料は問いません)を開くことも可能です。
気の合う仲間との読書会や、推し本を語るお茶会など、使い方はあなた次第。
あなたも大切な一冊と一緒に、HONKEでの新しい時間をはじめてみませんか?
下北沢で待ってます
HONKEは、下北沢駅「南西口」より徒歩2分。かつて小田急線の線路があった場所は現在、緑に囲まれた遊歩道になっています。
ガタンゴトンと心のなかで呟きながらまっすぐ進むと、ちょうど駅と商業施設(ボーナストラック)の中間あたり、左側に小さな階段が見えてきます。
ここは、ドラマ『silent』(想と奈々の待ち合わせ場所)に登場した階段。ドラマのワンシーンを思い浮かべながら階段を降りたら、すぐ空を見上げてください。
「本」とかかれた暖簾が見えたら、そこがあなたの居場所『HONKE』です。外階段を上がり、本との時間をお楽しみください。
HONKE
東京都世田谷区代沢5丁目34−6-2F
OPEN 6:00-21:00







